江別の屯田兵 3.江別兵村(2)篠津屯田
3 江別兵村(2)篠津屯田
(2)篠津屯田
篠津屯田配置図
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明治14(1881)年7月、東北3県から19戸入地したのが、篠津屯田の始まりです。篠津太は、早くから養蚕事業の試験地として開拓使勧業課が養蚕室及び付属施設を建て、琴似・山鼻両屯田から豊平川を船で下って養蚕が行われていました。明治12(1879)年、屯田事務局の管轄に移って篠津太が屯田兵予定地となり、士族を対象とした屯田兵募集でしたが、養蚕経験者をということで半数近く農民が入っています。分隊長は、後に江別町長を務めた青森県出身の名越源五郎(なごやげんごろう)曹長(後少尉で第二中隊小隊長、退役時少佐)でした。
19戸(後分家1戸)の篠津屯田は、篠津川が大きく湾曲して石狩川に合流する内側の地に置かれていました。兵屋は、暖炉(ペチカ)付き、丸太積み(ログハウス風)のロシア式でしたが、多額の費用を必要とし、採光の面などでも不評で、江別屯田のアメリカ式兵屋と同様、その後は和式兵屋になっています。
篠津屯田は、明治18(1885)年に30戸、明治19(1886)年に10戸が北側の篠津川対岸に入地して計60戸になっています。明治20(1887)年、江別に大隊本部が置かれて、これまでの第一大隊第三中隊から江別屯田とともに第三大隊第一中隊所属になっています。
篠津のロシア式兵屋
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篠津太には、2棟の養蚕室がありましたが、開拓使廃止(明治15年)後、1棟は野幌屯田へ移設され、養蚕は屯田兵の授産施策として札幌や江別など各兵村へ広がり、盛んになってきています。しかし、明治30年代には、桑の葉の生産減少や生糸価格の低落で養蚕は衰え始め、篠津では林檎(りんご)栽培が進められて一時は札幌方面へ出荷していましたが、これも明治末期には衰退し、米作や酪農へ転換していきます。
後に、江別・野幌両屯田が市街化していった中で、篠津屯田は、今も米作・畑作の純農村地域として開拓の伝統を引き継いでいます。篠津屯田の遺構はなく、石狩川対岸のバス停留所「旧兵村」近く(新石狩大橋寄り)に、「篠津太養蚕室跡」の標石が建てられ、名残をとどめています。
養蚕室
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