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江別の屯田兵 1.屯田兵制度

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年1月30日更新
江別の屯田兵

1 屯田兵制度

 明治維新後の日本は、幕府の時代からの樺太国境問題をかかえており、北海道はロシアに対する国防の要地として内陸の開拓が急務とされ、一方で失業士族の救済を必要としていました。しかし、北海道への保護移民政策の進展が滞り、治安維持体制も確立されていない状況にあったのです。

 明治7(1874)年6月、屯田兵制度を建言していた黒田清隆開拓次官(後に長官)が北海道屯田憲兵事務総理となり、10月には屯田兵例則が定められて屯田兵の募集が始っています。屯田兵は、警察権をもつ憲兵で、士族を資格とする世襲制の軍隊とし、農業開拓を進めるために家族を伴ない、戸主は軍事訓練を受けて非常の変に備えることにしていました。

写真/永山武四郎陸軍少将 最初の屯田兵は、明治8(1875)年に札幌の琴似、明治9(1876)年には山鼻に入っていますが、明治10年(1877年)は西南戦争で中断し、明治11(1878)年に再開して江別への最初の入地となっています。当初の屯田兵は、戊辰(ぼしん)戦争で敗れた東北諸県士族からの募集でしたが、明治15(1882)年に開拓使が廃止されて陸軍省管轄後の明治18(1885)年以降は全国が対象となり、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争後の中国・九州諸県士族の入地も多くなっています。兵村の配置は、札幌周辺から太平洋岸、空知・上川・北見方面へ広がっています。

  明治18年、新たに屯田兵条例が制定されて、永山武四郎陸軍少将(写真)が屯田兵本部長(後に司令官・第七師団長)となり、明治23(1890)年には大改正が行われています。世襲制を廃して、現役3年、予備役4年、後備役13年、計20年(後に現・後備役年数改定)の兵役とし、採用年齢は17~30歳(当初18~35歳)が17~25歳と若くなり、歩兵の他に砲・騎・工兵の特科隊を置くことにしています。また、平民からも応募できるようにしたので、大部分が平民からの採用となり、いわゆる「士族屯田」から「平民屯田」に移行しています。

  明治28(1895)年に動員された日清戦争では、東京までの派兵で帰還し、屯田兵は翌29(1896)年に設置された第七師団に属しています。やがて、北海道の開拓が進展し、全道的に徴兵令が施行されるようになって、屯田兵の募集は明治32(1899)年で終わり、明治37(1904)年に日露戦争で出征していましたが、この年の9月に屯田兵条例が廃止されています。明治8年の琴似から32年の士別・剣淵入地までの25年間に、屯田兵は、7,337戸、37兵村、家族を含めて約4万人を数えています。


屯田兵村配置北海道地図

屯田兵村配置北海道地図

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