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江別の水田農業のなりたち

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年1月30日更新

実るほど頭を垂れる稲穂かな


 人口12万人を擁する街江別ですが、車で10数分も走ると、のどかな田園風景に出会うことができます。
 街の喧騒からは感じることのできない郷愁に心洗われる自分を見つけてください。

写真 春 田植えが終ったばかりの幼い苗

写真 秋空の下 刈り取りを待つ稲田

写真 稲刈り

 こうした水田の用水管理や田んぼの整備は「土地改良区」というころで行っています。
 江別では農業用水は主に川からポンプでくみ上げています。総延長数キロにも及ぶ水路をとおり、水田に水を供給しているのです。

写真 ポンプ施設
 ポンプ施設(水田用の水を汲む施設)

写真 用水路
 用水路(水田に水を送る水路)

 このような水田に水を供給する施設(灌漑用水施設)は、もちろん最近になって整備された訳ではありません。先人たちのたゆまぬ努力によりその礎が築かれ現代の我々に技術とそして何より開拓者魂が脈々と受け継がれているのです。
 それではその歴史を簡単にふり返ってみましょう。

北海道開拓のはじまり

 明治7年(1874年)ロシアの南下政策に対する防備と道内の治安対策、そして明治維新により職を失った旧士族(江戸時代では武士だった階層)の失業対策のため屯田兵則が制定されました。

 明治元年(1868年)に新政府の直轄地となった蝦夷地(北海道)は帝政ロシアに対する軍事的防衛基地、諸藩で削俸となった士族や一般貧窮民の救済策としての開拓などが緊急課題でした。それは、樺太(現在のサハリン)で日本とロシアとの間で国境を決めていなかったことから争いが続き、政府も日本の北方地域に関心を寄せざるをえなかったからといわれています。

 江別では明治11年(1878年)に屯田兵10戸の移住開墾から始まりました。
 (屯田兵とは「兵」という名のとおり、平時は開墾従事していますが、有事には銃を持って戦う規律ある軍隊でした。樺太は当時日露雑居の地でしたが、ロシア人が日本人の村を襲い略奪をするなど、常に問題が絶えなかったと記録に残っています。)

 当初の江別は原始巨木の密林、人間より大きい熊笹のジャングルであり視界は60m先の家が見えず、地面は何百年もの生えては雪に折られを繰り返した笹の絨毯が地面から60cmも堆積しておりいくら笹を刈っても土がないという状態でした。

写真 開拓期の家屋
 開拓期の家屋

 出てきた地面も泥炭湿地で排水を施した後でなければ使えないところも少なくなく、そのすべてが農地に利用できるわけではなかったようです。
 一口に開墾といっても伐木、笹刈り、根焼き、新地起こしと様々な困難との戦いです。現代の我われに野幌原始林を鍬と鋤を持って「ここに道路、畑を作れ」と言われるようなものです。

写真 開拓期写真 開拓期

土功組合

 明治35年(1902年)に北海道土功組合法が制定されました。
 これは、「農業上必要な道路、用排水路等の維持や有害物の除去、防止」を目的としていますが、主に水田開発の目的で設立され、北海道拓殖計画遂行推進の一翼を担うこととなります。

 当時、北海道の発展に必要な道路等の社会整備を早急に行わなければならなかったのですが、国の事業だけで進めるには限界があり、国の補助で組合による社会資本整備も必要とされたからといわれています。

 江別市にも多数の土功組合が結成されました。
 組合員は、原則、地主及び自作農者、組合員の強制加入、組合費の租税化、組合長は、支庁長または区町村長であり、まだ現代の耕作者重視の政策とは言えませんでした。

 その後、日清・日露戦争や第1次世界大戦、太平洋戦争等戦争のたびごとに海外植民地が重要視され、その後の太平洋戦争の激化や財政事情の悪化とも相まって、北海道開拓計画は急速にその比重を低下させていき混乱の時代となっていきました。

戦後の開拓

 太平洋戦争終戦直後、日本は敗戦のため、あらゆる生産機能を失いました。そうした中で、北海道は日本復興のための食糧や資源の供給地として再び注目されるようになりました。

 その役割は、食糧危機を救うための食糧供給地、戦争被害が軽かった鉱工業などの原材料供給地としてのものでした。
 こうした経過から北海道を重点的に開発するために昭和25年(1950年)に北海道開発法が制定され、北海道開発庁を設置し、戦後開拓が推進されていきました。

土功組合から土地改良区へ(地主から耕作者へ)

 戦前の耕地整理組合法、水利組合法、北海道土功組合法が廃止となり、これらが統合して昭和24年(1949年)に土地改良法が制定されました。
 戦後、GHQ(注1)が民主化を図る農地改革の過程で、寄生地主(注2)廃止、農地解放(注3)を目的とし、農業用水の管理権を耕作者へ移行させたのです。
 用水を使う農業従事者の自主的組織を「土地改良区」とし、従来の土功組合から土地改良区へ組織変更していきました。
 江別についても、篠津、幌向太、早苗別が土地改良区へと組織変更し、その後組織した野幌土地改良区と合併して江別土地改良区となりました。

注1、GHQ
 「連合国最高司令官総司令部」の略で、敗戦国となった日本の今後を統括、指導していくための連合軍の機構です。昭和20年(1945)ポツダム宣言の受諾に伴い、日本は、新しい秩序を確立するまで、そして、再び戦争を引き起こさないという確証が得られるまでの間、連合軍の占領下に置かれることになりました。
注2、寄生地主
 土地を小作人に貸して、自らは農業経営を全くせず、高額な小作料(収穫量の60%)をとっていました。
注3、農地解放
寄生地主から農地を政府が強制的に買い上げて、小作人に安価に払い下げ、自作農中心の農業とすること。

江別の戦後開拓

 このような戦後の事情はもちろん江別も例外ではなく、食料増産の期待を担って現在の農地の26%にあたる農地が拓かれました。
 ただし、農地といっても現在のような水田ではなく、土地あたりの収益力が低い畑作中心でした。そこで収益を増やすため、畑作地から水田への農地の転換が行なわれるようになり、我われが今見ることのできる水田地帯への変貌を遂げていくのです。

 その中で、水田造成を飛躍的に助長させたのは、世界銀行から外資融資の導入を行った篠津地域泥炭地開発事業でした。
 農業用水路である篠津運河の建設(昭和26年(1951)~昭和46年(1971))で、実に月形町から江別市までの23.5km建設、頭首工2箇所、揚水機場9箇所 総事業費20,175,791千円。これにより、11,398ha(支笏湖の1.5倍)の水田に用水を供給できることとなりました。

 写真 篠津運河(月形町にて石狩川より流入)
 篠津運河(月形町にて石狩川より流入)

写真 篠津運河建設時
 篠津運河建設時

写真 現在の篠津運河(江別市:国道275号付近)
 現在の篠津運河
 (江別市:国道275号付近)

 これらの施設を維持管理するために南美原土地改良区、篠津中央土地改良区が設置されました。
 この大事業を含め、江別全域で水田造成が行われ、現在の江別の水田農業が形成されたのでした。

 現在は、農産物輸入自由化による米の価格低下、食生活の欧米化による米の消費量の低下などにより、昔に比べ水田農業も厳しい状況にあります。
 しかし、このような江別の水田農業の歴史を振り返ると、先人たちのたゆまぬ努力の結晶の水田を次世代に大切に伝えていきたいという思いが募ります。