叢書・江別に生きる 9 『―忘れられた義務教育― 青年学校物語』
中村 齋 著 2000年3月発行 定価1,800円(消費税込み)
昭和十二年に勃発した日中戦争の泥沼化と太平洋戦争による戦線が拡大する中、青年学校で学んだ若者たちは戦局の苛烈化に伴い、学習時間を投げ出して軍事教練一本に傾斜していきました。
本書には、十五年戦争を背景として生まれ、そして消えた青年学校の軌跡を、同学校で学んだ人びとの回想を中心に描かれています。
(-序-より)
昭和十(1935)から昭和二十(1945)年までの十年間、働く青年を対象にした学校があった。それが「青年学校」である。
青年学校が存在したこの時期は、第二次世界大戦の期間とほぼ一致する。それはまた、日本がまだ大日本帝国と自称していた時期でもある。
農家や零細企業の子弟の多くは、小学校を卒業してから上級の学校に進学することは困難で、直ぐ働かなければならなかった。
当然、子どもたちの中には、この不合理を感じ取りなんとか勉強を続けたい、上級学校へ進みたいと考える者もいて、働きながら夜学校へ通ったり、通信教育を受けたりしていた。そうした中で設置され義務化された「青年学校」は、青年たちにとって喜ぶべき制度ではあったが、設置の真意は、大日本帝国のために喜んで命を捧げる、勇敢な兵士を養成するためのものであった。
青年学校の設置にいたるまでは多くの布石があって、生徒が通学するようになって、その教授内容から、兵士に仕立て上げられていると気づいた時には、すでにそれを当然の義務のように信じて疑わない青年となっていた。
(はじめにより)
目 次
第一章 青年学校生徒が語る
(一部抜粋)
青年学校は夏冬とも夜間に行われました。日中は家の仕事をしなければならないからです。
教科と教練がありました。教練を教える先生を教官とか指導員とか言っていました。
木銃で銃剣術の訓練をしました。後の話になりますが、銃剣術は軍隊で役に立ちました。剣道は一級ですが、これはあまり役には立ちませんでしたね。
昭和十六年五月二十二日、東京代々木で行われた御親閲に出席しました。石狩管内から抜てきされて行ったのです。
第二章 「開墾の詩」―青年指導者短期養成講習―
(一部抜粋)
敗戦の年、野幌原始林の中に青年男女を集めて、青年学校指導員を養成したというのだ。
面白いことに、男子は昭和二十年三月から九月までで、女子は戦争が終わった十月から翌年三月までの期間だったから、男子と女子では受講内容が百八十度転換していることで、講師は変わっていないから、一体どのような転換を見せたのか。
第三章 北海道青年教育のあゆみ
一 開拓使の青年教育
二 実業補習学校
三 野幌実科農学校
四 実業補習学校教員養成所
五 青年訓練所
六 青年団
第四章 青年学校
一 「昭和」という舞台
二 青年学校
第五章 青年学校とは何だったのか