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叢書・江別に生きる 7 『母たちの風景』

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年3月8日更新

母たちの風景

櫛田栄子 著 1997年3月発行 定価1,800円(消費税込み)


 昭和の初めにはたくさんの物資が、石狩川に架かる石狩大橋を渡って江別に入ってきた。北の方向から橋を渡り切ると、そこは十二戸通り、現在の緑町東四丁目界隈だ。当別・新篠津方面から江別市街に入る唯一の道として賑わいを見せた往時とは違い、今では祭りの日でも人の往来が少ない。それでも道路には、各種の車輌が走行して物資輸送の要としての役割を変わらずに果たしている。

(第一章「商う」本文・プロローグより)

目 次 (あらすじ -序-より)

第一章  商う  ―永上シナヲの風景

 永上シナヲさんの手記と聞き書きを参考に、農民の子であった一人の少女が、たくましく明るく生きる商人に成長する物語。

<プロローグより>
 シナヲは深く頷いて「女が仕事をもって生きるということは、本当にたいへんなことですねえ」と呟いた。それから、少し間を置いて「商人というのは世間の人達から一段低く見られている職業ですよ」と言った。
 私は内心で驚いた。商店経営に優れた手腕を振るい、会社経営の実績をもつ女性の口から出た、意外なことばだった。
 そして、改めて目の前にいる人生の年齢を重ねてきた人の顔を見つめた。人の気持ちをそらさない笑みと丁寧な物腰は、鍛え抜かれた職業人の所作だ。その所作が、私の心を強く引きつけて離さなかった。

第二章  耕す ―春日節江のあゆみ

 春日節江さんの手記と聞き書きを参考にして、農家に嫁いだ女性が、家族や地域の協力、牛や馬などの家畜に助けられながら農家の主婦に成長し、さらに農村婦人のリーダーとなって活躍する物語。

<プロローグより>
 「自分にできることをやればいい、と夫に言われましてね。田圃のあぜ草刈りとか婦人部の仕事とか、一生懸命やりましたよぉ」
節江は謙遜するが、彼女は昭和三十九年から昭和五十三年までの十四年間、江別市農協婦人部の役員を務めた。
農家の衣食住に関わる生活改善・農村悪因習の改善・農村婦人の地位向上に力を注ぎ、婦人部活動の模範として全国的な評価を受けた中心人物だ。
陽当たりのよい居間で「現在がいちばん楽をしていますねえ」と微笑む節江の、膝に重ねた両手は日焼けして節くれていた。その手は、平坦な道ではなかった年月が存在したことを語っているように思えた。

第三章  育てる ―青木捷子の旅路

 青木捷子さんからの聞き書きをもとに、障害児を産み育てた母親の苦悩と、子供を心の支えとして共に強く明るく生きる姿が描かれた物語。

<プロローグより>
 「うちの娘と乳幼児健康診断を一緒に受けた娘さんが結婚することになったという話を、人伝てに聞きました。その話を聞いて、ああ娘も結婚適齢期の年齢になったのだと気が付きましたの。娘は娘の歩みなのだから、他の子どもと比較するのはやめようと心に決めて過ごしてきました。でもねえ、お嫁に行く年齢になっていたことは、胸に応えたわぁ」と声を落した。
 細身の体躯の背筋をピンと伸ばし、清潔なエプロンを付けてテキパキと働く捷子から陰りは感じられない。二人の子どもを育てた母親の落着きと屈託のなさがあった。そのために捷子自身の告白がなければ、ハンディキャップをもって生まれた娘とともに闘いの日々を過ごした人だとは分からない。

第四章  産む ―福井佳代・いのちとの出会い

 福井佳代さんからの聞き書きをもとに、夫の病死後二人の娘を育てながら助産婦として懸命に働く姿と、その目を通して妊産婦の立場と衛生概念の変化、産む人との交流が描かれた物語。

<プロローグより>
 彼女は、第二次世界大戦終結直後の混乱期に助産婦の資格を取得し、四十年間助産婦の仕事を続けてきた人だ。取り上げた赤ちゃんは、三千数百人。開業当時に生まれた赤ちゃんは、現在社会の中堅として活躍している。
 「私は、職業軍人の夫を戦病死で失い、残された幼い娘二人を育て上げるために助産婦になりました。仕事は責任も重くたいへんなことがたくさんありました。でも、新しい『いのち』の息吹きに触れ、健康に発育する赤ちゃんの可愛らしさと成長を見守る喜びが膨らんで、とうとう七十歳を過ぎるまで働き続けました。とても幸せでしたよ」と福井さんは言った。