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平成16年第3回江別市議会会議録(第2号)平成16年9月15日 5ページ

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年1月30日更新

6 議事次第の続き

一般質問の続き

議長(宮澤 義明 君) 

以上をもって、矢澤議 員の一般質問を終結いたします。
 一般質問を続行いたします。
 清水議員の外国人参政権についてほか3件についての質問を許します。通告時間30分。

清水 直幸 君

 議長より発言の許可が出ましたので、通告に沿って一般質問を開始させていただきたいと思います。
 さきに、矢澤議員からもお話ありましたように、このたびの台風18号の本道上陸に際しまして、多くの被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、江別におきましても実りの秋を迎え、大いなる豊じょうの時期がやってきたさなか、甚大なる被害を受けられた多くの就農者の皆様に衷心よりお見舞い申し上げる次第であります。
 早速質問を開始させていただきます。
 参政権とは、国内の政治に影響力を行使させるための権利であります。外国人参政権については平成7年に、当江別市議会におきましても推進すべしとの意見書が、全会派の合意によって提出されておりますが、それから10年近くの月日が流れ、外国人による凶悪な犯罪の増加や脱北者の急増、北朝鮮による日本人のら致事件などが明るみに出るなど、世界情勢が大きく変容している中で、改めて思い直さなければならないものかと考えるものであります。
 一国の政治に別の国が干渉することを内政干渉といいます。現在の国際社会では許容されない行為です。仮に、実際に他国からそのような要求があったとしても、内政干渉については一切応じる必要はありません。外国人に参政権を認めるということは、この内政干渉を合法的に行えてしまうということに直結いたします。国政はもちろん、地方自治体の政治も内政の一部であることは言うまでもありません。したがって、参政権は国民固有の権利です。外国人に与えることはできないのです。ここまでが大原則です。
 次に、各論に入ります。
 日本永住の外国人は、韓国・朝鮮籍を中心に鳥取県の人口とほぼ同じ62万人に上ります。平成3年の特別永住者制度の導入で、参政権を除き、社会保障、行政サービスすべての面で日本人と同等な権利が保障されているわけであります。もちろん、地域でともに暮らす外国人の人権や生活権を守り信頼関係を深めるために、より一層の取り組みが必要なことは言うまでもありません。永住外国人の要望を地域の行政や国政に反映させる仕組みを作ることも急がれることは理解しております。
 しかし、こうした外国人の人権、生活権保障と参政権は全く次元の違う話であります。国民主権における国民とは、憲法第10条を受けて制定された国籍法に基づき、日本国籍を有する国民であり、外国人を含まないことは明らかであります。参政権は、国家の主権と不可分の関係にあるから、外国人に保障されないことは当然であるとも考えます。
 憲法に明示されており、地方参政権を外国人に与えることは憲法違反であります。最高裁判所は外国人に地方参政権が与えられないのは憲法違反ではないでしょうかという提訴、質問に対し、いいえ、外国人に参政権が与えられないのは違憲ではありませんと答えを出しただけであります。ここで、最高裁判所が地方参政権に限定して答えているのは、地方参政権と国政参政権が別だからではなく、地方参政権について質問されたからだということであります。地方参政権と国政参政権は別だという根拠は成り立ち得ないのです。
 しかも、その判決の中で、憲法には地方選挙に投票できる人を住民と書いてありますが、これは国民のことですと明示してあります。この判決は、地方といえども外国人に参政権を与えることは違憲ですと言っているわけであります。参政権を国民固有の権利と憲法第15条の規定を明確に示し、永住外国人の参政権問題に決着をつけたものと言えます。
 税金を払っているのだから参政権を与えるべきであるとのご意見があります。
 しかし、税金は道路、医療、消防、警察などの公共サービスの対価であり、参政権とは関係ありません。もし、税金によって参政権が与えられるのならば、逆に言えば多くの学生や一部の高齢者など、税金を払っていない人からは参政権がはく奪されるということにも、逆説的にあり得ることであります。
 外国には認めている国もあるとの意見もあります。それらの国のほとんどは特定の国に対して相互に認めているのであります。では、日本の場合はどうかと言えば、例えば、韓国国内では、既に在韓日本人に対する参政権付与の法案は否決されています。したがってこれも根拠になりません。しかも、それらの国々は経済的・文化的に近く、将来には統合を目指している国々がほとんどであるそうであります。
 経済の問題は内政問題です。路線変更がききます。しかし、外国人に参政権を与えるとなれば、それは外交問題であり、日本だけの都合では取り返しがつきません。国政レベルでは自民党以外はほぼ賛成しているこの外国人に参政権を認めるということ、このことについての小川市長のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
 次に、国政選挙では初めてとなる、過日の参議院選期日前投票が行われました。従来の不在者投票より簡単との有権者の好評もあったようであります。さきの参議院選での各陣営は、早めに我が陣営に投票してもらえると、投票率アップにつながると期待し、あの手この手で有権者にアピールしていたようであります。
 期日前投票は、ご承知のように昨年12月に導入され、役場や市役所など各市町村に最低1か所投票所が設けられます。その後に行われた地方選挙を見ると、前回の不在者投票から倍増したところもあり、投票が増える傾向にあるとのことであります。
 九州では、今年4月の鹿児島市議選の期日前投票が、前回の不在者投票よりも20.6%多い2万8,854票に上がったそうであります。一方、ふだん投票しない人には、制度の良さが響かないかも。いつも投票する人が早めに投票しただけという声もあるようであります。
 そこでお尋ねいたします。
 国政選挙では初めてとなる参議院選の期日前投票が行われましたが、当江別市では以前と比べてどのような効果が見られたのかお答えいただきたいと思います。
 学園都市・江別。市内人口の10%を占める大学生が居住しております。道内でも他市町村に比べると極めて特徴的な人口構成になっております。その学生のすべてが住民票を江別に持つわけではありませんし、半数が未成年でありますが、この若い年齢の方々の投票率が全体の投票率を押し上げることは言うまでもありません。この国は今、国民1人当たり750万円以上の借金を背負っています。この先何十年も生活していく若者が皆政治に関心を持たなければ我が国の将来は成り立たないと感じるのは、大人の共通した考え方、思いではないでしょうか。
 教育の原点は家庭であるということは異論のないところであります。親は人生最初の教師であり、生涯の師であります。自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、自ら判断し、問題を解決し、生きる力を育成する。ノルマをこなすだけの忠実な人材は必要としていない企業、会社はそのように考えるようになってまいりました。現代日本の社会は、忠実、勤勉は最低必要条件にすぎず、積極的、創造的な思考、行動姿勢を有する人間を求めています。無条件の価値観の受容を認めず、あらゆる価値観に対しての批判精神を持ったたくましい人間の育成を目指すべきであります。
 今、若い人の間では社会的な事項や知的な事項に対する無関心の拡大、あるいは考える力の欠如が、民主主義の根幹そのものを揺るがしているのではないかと、そう考えざるを得ないのであります。政治的無関心が国を滅ぼすのではないでしょうか、若い世代の投票率向上についていかにお考えかお聞かせください。また、若い世代の投票率向上の手段、方法についてお考えがあればお聞かせください。
 今本会議の一般質問では、私以外の質問者が全員女性という、江別市議会の歴史始まって以来の快挙かとも思われます。もし、私が今回演壇に立たなければ全員女性議員ということで、江別女性議員の日条例が成立されたかもしれませんので、少し肩身の狭い状況ではありますが、黒一点、ここは市内の男性を代表したつもりで次の質問をさせていただきたいと思います。
 もってこいの項目でありますが、男女共同社会づくりについてお尋ねいたします。
 このところジェンダー・フリーという言葉を頻繁に耳にいたします。ジェンダーとは、生物学的に規定された性・セックスではなく、社会的文化的に規定された性差・ジェンダーを意味します。こうしたジェンダーの概念は1960年代から1970年代にかけてアメリカで起きたウーマン・リブ運動を発端としているそうであります。
 女性が男性に支配されるという性支配体系を構築したウーマン・リブ運動は、その支配構造から女性を解放するために、社会的制度における同等な権利を得る運動を展開しました。やがて、これが一定の成果を収めると、今度は男女という枠組み自体に差別構造が内在しているという認識に至り、これを抹消しない限り真の解放はないと考えるようになったようであります。
 ジェンダーとは、生物学的な差異ではなく、人間が人為的に作り出した社会的、文化的性差であり、支配者(男性)が被支配者(女性)を統治するための道具であるという、そうした観点に立っております。こうして男女という枠組み、すなわち男・女らしさを撤廃しようとする動きが生じた、これがジェンダー・フリーであります。
 また、フェミニズムという言葉を発明したのはフーリエという19世紀のフランスの社会主義者であります。彼女は家族を単位とした小さい農業の経営の存在が生産力を阻害し、個人の自由を妨げ、社会を混乱させている要因だと見て、調和ある社会を実現するためには家族制度を廃止し、その代わりにファランステールと呼ばれる農業共同社会の建設を提唱したそうであります。このファランステールでは、各人が男女を問わず、それぞれ能力、要求に応じて生産集団、生活集団に組織され、また一夫一婦制を否定し、男女の恋愛や結婚は従来の拘束から解放され、いつでも解約可能な契約による任意結婚、共同体が育児の責任を負う家庭生活、そして風俗、性の自由すらも提唱されたそうであります。さらにフーリエのファランステールでは、男女がともに同じ教育を受け、同じ経験を分け合い、同じ職業の準備をするためには、幼年時代からスカートとズボンという対照的な衣服で男女の区別をすることを避けると主張しているらしいです。
 このフーリエの構想はマルクス、エンゲルスに継承され、ソ連においてレーニンが現実に政策化したらしいのですが、1934年ごろ、これらの政策による風俗の乱れや離婚の増加、出生率の低下、少年非行の急増が社会の安定と国家の秩序を脅かすものと認識され始め、1936年のスターリン憲法の規定によって撤回されたとのことであります。正にその40年後のアメリカのようですし、正にそれから30年後の現代の日本の姿のようでもあります。
 もう一つの失敗例はスウェーデンで、ここもフェミニズム、イコールジェンダー・フリーの思想による育児の社会化政策が進められたとのことであります。その結果として生じたのは、親の国家への精神的依存体質と、やはり少年非行の急増だったそうであります。このスウェーデンの失敗政策も、現在では不況と財政赤字も手伝って方向転換しているそうであります。
 つまり、ジェンダー・フリーの主張は、歴史上失敗を繰り返そうとしているわけで、こういった主張が国や地方公共団体レベルで推進されているのが日本の現状であります。しかし、ここには幾つもの思考的間違いがあります。ジェンダーのほとんどが社会的、文化的に作られたものだという認識であります。
 最近の大脳生理学者はこうした思考的間違いを明快に指摘しております。医学の専門書には、いわゆる男性らしさ、女性らしさが大脳の構造的差異や男性ホルモンの有無によって生じることが明確に書かれているそうです。ジェンダー論者が声高に議論を尽くしても、そうした科学的、学問的事実によって、その理論は根底から覆されるのであります。もちろん、現在のらしさには男女の生まれながらの特質から派生したジェンダー、社会的文化的差異があるのは確かであります。しかし、これは安定した社会を築くために醸成された文化、あるいは習慣というべきものであります。全否定されるべき根拠はどこにもありません。
 確かに、女は何々してはならないとか女のくせにとか、行動の規制や男尊女卑的な発想は排除されるべきですが、一般的に言われるらしさの大半は望ましいものであります。男らしさは我慢強さや頼もしさ、責任感、女らしさには優しさ、繊細さ、母性的包容力等があることからもそれは明らかであります。こうしたらしさを、ジェンダーイコールあしきものという一面的な見方によって否定すれば、望ましい徳目が消えていき、人間性の荒廃を招くことは歴史が証明しているのであります。
 そこで、小川市長にお尋ねいたしますが、江別市における男女共同社会づくりの進ちょく状況について、その状況についてお聞かせください。ジェンダー・フリーという言葉の持つ極端な性差の解消議論がなされている中で、どのようなスタンスで男女共同社会づくりをお進めになられるおつもりなのかお聞かせください。
 また、前段でお話ししましたように、ジェンダー・フリーという言葉の持つ過激な意味合いを含む言葉自体、江別市男女共同参画基本計画において、使用することについてはどのようにお考えなのか、お答えください。
 男女共同参画社会基本法が施行され、ジェンダー・フリーの洗礼は生まれたばかりの子供にまで及ぶようになりました。文部科学省の出した子育て支援パンフレットには、女の子には愛らしい名前を、男の子には強そうな名前を付けることや、女の子のひな祭りや男の子のこいのぼりを否定するような内容となっているようであります。作成した日本女性学習財団は、子供の性格などを考えずに安易に男女らしさを押し付けてはならないという趣旨だったと言っておりますが、ちょっと弁解にはならないようであります。
 親の願いや日本の伝統文化など、無視してもかまわないというように感じられます。ジェンダー論者による文化の破壊は、ひな祭りやこいのぼりにとどまらず、昔話や童話にまで及んでおります。例えば、桃太郎のようにおじいさん(男)が山へしば刈りに(仕事)、おばあさん(女)が川へ洗濯へ(家事)といった昔話はおかしな偏りがあるとされ、性別役割意識を小さいころから刷り込んでしまうために、子供たちには読ませてはならないと言っているそうであります。
 小学校に入れば、その刷り込みは組織的かつ巧妙になります。その象徴的な例が東京都でも問題になりました男女混合名簿であります。男子が先は女子差別につながるということだが、これほどナンセンスな話はないと思います。名簿の後半に位置付けるのには差別であると、こういった前提に立つならば、五十音にしたところで、五十音順で生徒を差別することになります。男女というカテゴリーの秩序に問題があるというならば、年ごとに男女の順を替えればいいとも思われますが、それは区別イコール差別だという妄想を抱き、区別イコール違いによって分けること。差別イコール扱いに差を付けることの相違を全く理解していないからでありましょう。
 以下、学校における実践例について、学校をジェンダー・フリーに(明石書店)という本から引用いたします。
 ジェンダー・フリー教育を行う理由として、現在の学校システムが性差別を再生産する装置であるからだとしております。でも、その論拠として、アメリカの調査報告を挙げるだけで、日本の現状を分析したデータは記されていません。そのためか、根本的な教育制度や学習形態には言及せず、隠れたカリキュラムという言葉を使って、名簿、制服、呼称などを取り上げ、男性中心に見られる枠組みを変革しようというわけであります。
 その一環として、男女の呼び方を統一しようという動きがあります。男子を君、女性をさんと呼ぶのは区別イコール差別があるからとして、男女ともにさん付けで呼ぼうというのです。男女別の呼び方に性差別など全くないにもかかわらず、このような動きが急速に広がっているというのは、ジェンダー・フリーを内包する全体主義的な恐ろしさを示唆するようでもあります。
 授業でも、実践の中で首をかしげるようなものがあります。ある関西の小学校では、小学校1年生を対象として家族について考えさせ、標準モデル以外の家族の子供たちに対して、差別意識を生じさせないために、次のような授業が行われたそうであります。
 まず、家族の絵をかかせて、自分の家族を全員に紹介する。片親の子供にも他の生徒から質問があれば、親が離婚した等の理由を説明させる。小学校1年生には残酷なことだと思いますが、この教師は離婚は悪いことではない。結婚という形態が当たり前なのではないことを伝える、そういう意義はあるというそうであります。そうして、大人になったらお母さんやお父さんにならないで、一人で暮らして、友達同士で暮らしてもいいんだよと語りかけるそうであります。
 確かに個々の生き方は自由であります。学校という場で、しかも小学校1年生に伝えるべき内容であるとは思えません。これでは結婚制度の否定を刷り込んでいるようなものでありましょう。
 女の子からは、お母さんになって子供を生むのは痛いし、しんどいから嫌やという声が出たそうだが、この教師が子育ての大切さや喜びを伝えた様子はありません。もちろん少子化によって国の根底が崩れるであろうことは眼中にもないようであります。
 ジェンダー・フリーの教育の対象は生徒だけではないようであります。PTAの集会などでは、外部講師により講演が全国で行われているそうであります。私の元に寄せられた情報からある小学校で行われたセミナーの様子を紹介いたします。
 講師は、若い未婚の女性だったそうです。一通りの話が終わった後、保護者の一人が質問しました。娘がいるんですが、母親としてお嫁にも行ってもらいたいし、健康でチャンスがあれば出産もしてもらいたいのですが、今のように男女平等を教えていくと、何で私たち女だけが生まなくちゃいけないのかと、そのように言われそうで心配なのです。どうやって、男女平等を教えながら子育ての大切さを教えたらいいのですか。これに対して、講師は次のように答えたといいます。
 今の質問ですが、そういう考え方は子供を生めない女性に対しての差別を生むことになります。ですから、生んだ方がいいといった考えを子供に押し付けるのは良くないと思います。私は子供を生んでいませんが、このような教育の現場で皆さんと一緒に子供を育てていると思いますし、専業主婦に比べ多くの税金も払っていますから。それに今、世界では人口の爆発が起こっていて、将来、食料危機の心配もあるわけですから、日本人が子供を生まなくなっても大したことはないという人もいます。そのように答えたそうであります。
 強引な差別意識、出産や育児への抵抗、専業主婦のべっ視、少子化へのひそかな期待、これがこの論者の本音のようにも思え、恐ろしくなってきます。
 そこでお尋ねします。
 ジェンダー・フリーについて、義務教育期間中の江別市内の小学校、中学校では、現状どのような取り組み、学習内容など、現場でなされているのかお聞かせください。
 江別市の男女共同参画基本計画での評価対象事業一覧では男女平等・男女共同参画の視点に立った学校教育の中にも、ジェンダー・フリーの進展がAランクのものが多く見られますが、いかがお考えなのかお聞かせください。また、今後どのような対応が予定されているのかお答えいただきたいと思います。
 2000年4月から全国の小中学校でゆとりの教育が始まりました。教育は国家百年の大計であり、国の礎たるものであります。今教育界では校内暴力、学校崩壊、不登校生徒の増加、学力低下、理科離れなど教育問題が山積しております。
 一方、偏差値教育、知識中心主義、テスト中心主義で、過密授業、高速授業が一般化し、大学に入るまでは熱心に勉強するが、大学に入った途端遊んでしまう学生が多いのは、高度経済成長時代からの特徴であり、学歴社会、受験戦争、学力格差と落ちこぼれを生み出した元でありましょう。そして今、改めてゆとりの教育とは何か、学校とは何か、どうあるべきか、子供たちに何を伝えるべきなのか、どのように伝えるのかと考えるわけであります。
 なぜに教育にゆとりを付けることになったのでしょうか。第1に、今の教育の受験戦争をはじめとする詰め込み教育、計算力は高いが思考力、創造力は低く、日本の学力形成は受験用の学力に偏ってまいりました。そのような知的偏重の一辺倒の過密授業から、教科書、マニュアルのない授業を求める声が大きくなったことが挙げられます。第2に、個性を重視しようとする風潮が指摘されております。子供たちが自ら考え行動する、生きる力を育成するために、個に応じた体験的、問題解決的、人間尊重のきめ細かい教育を期待されているわけであります。だからこそ、総合的学習では先生の真の力量が試されると考えるわけであります。
 基礎基本の学力の不足が現場から叫ばれております。漢字が読めなければ教科書に書いていることが分からない、計算ができなければ算数、数学はできない、歴史上の重要人物を知らなかったら歴史など面白くないということであります。
 できないことをできるようにさせる、これが教育ではないでしょうか。今の教育は、これこれは難しいから教えるのはやめましょうと言っているのに等しいように思われます。できないから教育が必要なのではないでしょうか。子供たちが、この高さのハードルが越えられない、だからハードルを下げましょうというのは、一見子供のためのように思えますが、実際この発想こそが子供を一番駄目にしているのではないでしょうか。子供がこの高さのハードルが越えられないのなら、どうして大人たちは子供たちと一緒になってそのハードルを越えられるように支援しないのでしょうか。これこそが正に教育ではないだろうか。ゆとりの教育とはそうあるべきではないかと考えるわけであります。
 教育現場では週5日制が始まっております。現実問題として子供たちは学校以外での時間が増えております。このゆとりの教育によって学力の低下が進んでいるとのこと、公立高校で教師をしている友人が、年々入学してくる子供たちの学力が落ちていると言えば、もう一人の、他市で中学校の教員をしている友達が教える時間が全然足りない、うちの学校はまだ放課後に見てやっているので、やる気のある先生が多いからいい方だよと言っているそうであります。それを踏まえて、当市では今後どのような対応をされるのか、また、ゆとりの学習が始められてから昨年まで、市内の小中学校での学力、主要教科はどのように変化したのでしょうか、お答えください。
 以上、第1回目の質問とさせていただきます。

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