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江別の屯田兵 5.屯田兵の生活

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年1月30日更新
江別の屯田兵

5 屯田兵の生活

屯田兵開拓の図

絵:屯田兵開拓の図(砥上蕃光:作)

 屯田兵の家族の人々が入地した時、道路から25間(約45m)入った兵屋が見えないほど昼も暗い原始林の中で、隣家も背丈を越す熊笹で見えないあまりの寂しさに、女や子供は泣いていたと言われます。大部分の標準型和式兵屋は、17.5坪(約57.8平方メートル)で炉を切った板の間と続く台所、6畳間と押入付きの4畳半、入口から裏口まで通した土間、屋根に煙出し、無双窓(むそうまど)という寒さを考えない「江戸の武家長屋」と称された家だったのです。

 屯田兵の移住に際しては、支度料・旅費等が支給され、到着後は家屋・土地の他に家具などの生活用具、農具、種子などが現物支給されました。更に、移住後3年間は、扶助米と塩菜料が給与され、手厚い官費による保護がありました。

 屯田兵の1日は、起床から点検・就業・昼食・終業まですべてラッパの合図で営まれ、毎週土曜日には家族全員が家の前に並んで武器や農具などの検閲を受けることが義務づけられていたのです。兵員である戸主は、移住後半年間近く毎日訓練を受け、その後も月3回の訓練や他兵村との集合演習などが軍務で、一方の農務は、農業に不馴れな士族が多い上に、開墾は主として家族に負わされていたので容易に進まない状況にあったのです。


屯田兵開拓の図(砥上蕃光:作)の拡大画像を見る [gifのファイル/98KB]※別ウィンドウが開きます

屯田兵屋平面図



 入地当初の農作物は、麦・豆類などの雑穀が主でしたが、収穫量が少なく出荷できるのは小麦程度で、主食の米作りは寒冷地不適として禁止されていたのです。他に、屯田兵授産のために養蚕と麻の栽培が奨励され、兵村に養蚕室が設けられて養蚕と冬は製麻場としても使用していました。

  屯田兵の子弟教育のために、明治19(1886)年、江別の二番通寄り(緑町西1丁目)に江別東学校(後に江東小、32年江別町小学校と合併して江別小学校)、野幌の三番通寄り(野幌代々木町)に江別西学校(後に江西小・江別第二小学校)が開校しています。篠津でも、養蚕室一部での寺子屋式教育が、明治22(1889)年に篠津小学校として認可されています。

 屯田兵に対する3年間の扶助期間が過ぎると、農業だけでの生計が難しくなり、予備役編入(明治24年)後には、許可を得て鉄道工事・冬山造材・炭鉱・漁場などへ出稼ぎに行くようになっています。後備役に入り(明治28年)、やがて屯田兵制度が廃止(明治37年)されるころになると、土地を離れる者もいましたが、米作りができるようになり、次第に農業技術も向上して落ち着いた農村になっていったのです。


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