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江別の屯田兵 4.野幌兵村

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年1月30日更新
江別の屯田兵

4 野幌兵村

野幌屯田配置図

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 野幌屯田配置図           

 野幌兵村(野幌屯田)は、明治18(1885)年の138戸と翌19(1886)年の87戸、計225戸の入地によって形成され、江別兵村(江別屯田)と6丁目通を境にして10丁目通にかけて配置されています。17.5坪の和式兵屋で、給与地は1戸4千坪でしたが、後に四番通北側の現元野幌や大麻方面に追給地が与えられています。

 野幌屯田の人々は、九州・中国地方出身者がほとんどで、入地当時は北国の冬の寒さや雪の中での生活が厳しいものであったと想像されます。

 兵村では、麦・豆類、馬鈴薯などの他に養蚕と麻の栽培が勧められ、野幌駅の鉄道沿線一帯に桑園、大麻方面には麻畑が広がっていたのです。大麻の地名は、当時札幌寄りを「大曲」、野幌寄りを「麻畑」と呼んでいたので、その頭文字を組み合わせて「大麻」と名付けたと言われています。

 野幌屯田は、当初第一大隊第四中隊でしたが、明治20(1887)年、江別に本部を置く第三大隊第二中隊となっています。兵村の中央部、現錦山天満宮の位置(野幌代々木町)に第二中隊本部が置かれ、中隊長として吉田清憲(きよのり)大尉がいました。

  


野幌の屯田兵屋(湯川公園)

  写真/野幌の屯田兵屋(湯川公園)日清戦争では、明治28(1895)年に野幌屯田兵も動員されて、東京までの派兵で帰還していますが、37・38(1904・1905)年の日露戦争では、村岸次郎准中尉以下71名が江別・野幌両兵村から招集されて、多くの戦死者を出しています。現在、天徳寺(野幌町)に、名古屋のからくり人形師玉屋庄兵衛作の「屯田の木像さん」と呼ばれる日露戦争戦死者の木像32体が祀られています。

  野幌屯田の遺構である野幌屯田兵第二中隊本部は、最古の屯田兵機関の遺構で、明治期の官庁建築としても数少ない貴重な建物として北海道の有形文化財に指定されています。湯川公園(野幌寿町)には、明治19年広島県から入地した湯川忠継(ただつぐ)(戸主千代吉)さんの屯田兵屋が復原されています。なお、練兵場跡の江別第二中学校(野幌代々木町)に隣接して、大正4(1915)年野幌兵村の開村記念碑が、その左手に昭和9(1934)年には開村五十年碑が、建立さられています。


中隊長交代記念

写真/中隊長交代記念
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右:吉田清憲 大尉
中央:篠崎彦次 大尉
左:徳江茂隆 中尉
円内:名越源五郎 曹長(後の江別町長)


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