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江別の屯田兵 3.江別兵村(1)江別屯田

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年1月30日更新
江別の屯田兵

3 江別兵村(1)江別屯田

(1)江別屯田

 江別屯田配置図

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2江別兵村配置図

 明治11(1878)年8月、岩手県からの10戸の屯田兵は、石狩川沿いの現緑町から王子辺りにかけて入地し、明治17(1884)年に2戸が分家して12戸となり、「12戸屯田」と呼ばれていました。当初は、札幌琴似の第一大隊付属分隊として「江別太屯田兵」と通称し、屯田事務局派出所が置かれ南部藩(岩手県)出身の栃内元吉中尉(後に中佐)が所長として派遣されていました。

 12戸屯田の入地に先立って、開拓使顧問としてアメリカから招かれたウィリアム・スミス・クラーク(札幌農学校教頭)とエドウィン・ダン(農業技師)の指導を受けています。二人の進言で、1戸約1万坪の耕地、家畜の飼育、牛馬による開墾、そして日本で初めての土管排水が設備されています。また、寒地向けの暖炉付き、ガラス窓入りのアメリカ式兵屋が建てられ、畜舎も付属していました。

江別のアメリカ式屯田兵屋

江別のアメリカ式屯田兵屋の拡大画像を見る[gifファイル/139KB]※別ウィンドウが開きます
写真/江別のアメリカ式屯田兵屋

 明治17年、第二次の屯田兵75戸が東北地方などから入地していますが、これ以降は、建築費がかさむこともあって従来の和式兵屋に、給与地も第一次のアメリカ農法の成績不振で5千坪か4千坪になり、開墾の進み具合で追給地が与えられ、明治23(1890)年には一律1万5千坪給与されるようになっています。第三次は、明治18(1885)年に九州・中国など5県から43戸、続いて第四次は明治19(1886)年に中国3県から28戸が、2百間おきに東西につけた一番通から四番通の6丁目通までの道路両側に入地し、江別屯田の配置が完了しています。

 明治20(1887)年、江別の萩ケ岡に第三大隊本部が置かれ、江別・篠津両屯田はその第一中隊に編成されています。屯田兵本部が置かれると、兵村の中央に本部及び付属施設、幹部官舎、練兵場などの敷地がとられますが、江別の場合は、石狩川・江別川(千歳川)沿いから入地し、その先に江別駅が既設(明治15年)されていたこともあって、本部関係敷地は東寄りになっています。

  現在、江別屯田の遺構として、江別市指定文化財の第三大隊本部火薬庫、それに被服庫(野幌屯田兵第二中隊本部裏手へ移設)があります。なお、大正6(1917)年に江別兵村の開村記念碑が、昭和18(1943)年には「兵即農」の題字とともに屯田兵子孫の歌人伊東音次郎の撰文が刻まれた碑が、いずれも飛烏山に建立されています。

火薬庫(江別市指定文化財)
写真/火薬庫(江別市指定文化財)
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被服庫
写真/被服庫
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