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江別の屯田兵 2.江別の屯田兵

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年1月30日更新
江別の屯田兵

2 江別の屯田兵

 屯田兵用地として江別太(えべつぶと)が選ばれたのは、屯田事務局がある札幌周辺の河川交通の要地であり、後に開設される樺戸(かばと)・空知両集治監(明治14・15年開設)の脱獄者に対する治安上適当な地でもあったのです。

 当初の予定地は対雁(ついしかり)でしたが、樺太アイヌ移住地の計画(明治9年移住)があって、江別太(緑町・王子辺り)になっています。しかし、この地も開拓使出仕の大鳥圭介(箱館戦争時榎本軍陸軍奉行)との用地買収問題に加えて、西南戦争による募集中断もあって遅れ、明治11(1878)年8月の入地となっています。これが、最初の江別の屯田兵として入った岩手県からの10戸56名の人々です。

屯田兵入地の状況

年月(明治)

戸数出身県別戸数
江別篠津野幌江別篠津野幌
11年8月1010岩手10
14年7月1919青森7、岩手3、山形9
17年1月分家1岩手1
離籍1秋田1
17年5月75青森13、秋田17、宮城1、山形18、福島22、石川1、道内3
分家1山形1
17年9月分家179青森1
18年7月4330138211石川5、鳥取6、佐賀9、熊本7、鹿児島16石川5、鳥取9、佐賀7、熊本4、鹿児島5石川29、鳥取34、佐賀24、熊本21、鹿児島30
19年5月2887広島11、鳥取14、山口3広島37、鳥取30、山口20
19年7月10― 広島2、山口2、鳥取6
19年9月分家1126青森1
16060225445

 篠津太(しのつぶと)は、野生の桑が豊富な地で、明治9(1876)年には屯田兵授産のために養蚕室が建てられ、琴似・山鼻両屯田から出張して養蚕が試みられていました。当時、生糸や絹織物は、日本にとって重要な輸出産業の一つだったのです。こうしたことから、明治14(1881)年、篠津太には養蚕経験者を含めて19戸81人が入地しています。

 その後、明治17(1884)年、江別屯田に東北地方から75戸、明治18(1885)年には全国から募集されるようになって、主に九州・中国地方から江別・篠津両屯田と新たに野幌に計211戸が入地しています。翌19(1886)年にも125戸が入地して、分家も含めて合計445戸になっています。入地した人々は、長い船旅を経て小樽に上陸し、それから再び船か徒歩で、幌内鉄道開通(明治13年札幌・15年幌内まで)後は汽車で来ています。

 当初、江別10戸と篠津19戸の屯田は、それぞれ琴似に本部を置く第一大隊付属分隊として派出所が置かれ、明治15(1882)年になると、派出所を廃して江別に中隊週番所が置かれています。明治17年、220人をもって中隊を編成することになり、江別・篠津は第一大隊第三中隊、明治18年に野幌138戸の入地で第四中隊とし、明治19年に至ってそれぞれが中隊として充員されています。

 明治20(1887)年には、1中隊を160人から240人として江別に第三大隊本部が置かれて独立し、江別・篠津は第一中隊、野幌は第二中隊に編成され、野崎貞次(さだじ)少佐が大隊長になっています。なお、1中隊をもって兵村(へいそん)と呼ばれ、江別の場合は江別と野幌の2兵村ということになります。明治24(1891)年、江別の屯田兵は予備役に編入されて滝川に本部を置く第二大隊に所属し、明治28(1895)年から後備役になっています。

現役終了記念(明治24年 第二中隊本部前)

現役終了記念(明治24年 第二中隊本部前)現役終了記念(明治24年 第二中隊本部前)の拡大写真を見る[gifファイル/197KB]※別ウィンドウが開きます


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